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国際協力事業

海外便り(その1): 25年ぶりの中東ヨルダン(アンマン市)訪問とその変貌ぶりについて

小生にとって、アラブ文化との出会いは、当時の国際電信電話株式会社(現在のKDDI)から、JICA 専門家として、1987年3月から、中東のヨルダンに家族とともに、海外赴任し、2年半に亘り、ディジタル衛星通信技術の指導に従事したことである。
当時、ヨルダンは、人口が400万人程度で、小さな、砂漠の都市あった。砂漠で、埃の多い土地柄のため、いくら小綺麗にしてもすぐに埃をかぶると言う宿命がこの地にはあった。
記憶に残っている印象は、砂漠のため、当時開店したSAFE AWAYと言うスーパマーケットで、商品の包装が少々、破れていようがいまいが、値段は同じと言う、日本であればディスカウントするかも知れないが、アラブでは同じである。そのせいであろうか、帰国後は、あまり、包装を気にしないようなった、私自身もアラブ社会で揉まれ、海外に少し馴染んだような気がした。私が勤務したヨルダン電信電話公社(TTC)(現在の通信会社Orange)の本社ビルが、インターコンチネンタルホテル(写真1)の後ろの第3サークル付近にあった。秘密の歩道通路があり、本社ビルとホテルの行き来は、ホテルのプールを見渡せる展望エレベータを経由して、段差のあるホテルを行き来するため、大変楽しみでもあった。当時の市内は、ダウンタンの中心部から、第1サークル(ロタリー;現地語ではドワールと呼ぶ)、第2、第3、第4、第5、第6、第7、第8、一直線でスウェーレの町につながり、その先が小生の技術移転先のバッカ(BAQA)地球局となっていたため、広大なパレスチナの難民BAQAキャンプを左側に眺めならが、丘を下り、軍隊に守られた、地球局に通勤していた。

さてさて、このヨルダンに約25年ぶりに、KDDI財団のODA技術コンサルティング業務の関連で、再訪問したところ、ヨルダンの国際空港のクイーンアリア空港もずいぶん大きく、新しく立派になっており、驚かされた。変わらないのは、空港の通関で、パスポート見せ、日本人(ヤバーニ)と解ると、ヨルダン人の通関職員が手のひらを返したように、歓迎の意を表す“アファラン、ワー、サハラン”と言う懐かしい声が返ってきた。勿論、この度も、日本人は特別待遇で、長年の国際技術協力の賜か、通関後は課税のための荷物検査もフリーパスであり、25年ぶりのヨルダンの人情味の厚さに、我ながら感激をした。
アンマン市内は、昔あった筈のダウンタウン(ローマ円形劇場)から第1から第8のドワールが全く見当たらず、昔の土地勘がさっぱりと働かない。それもそのはずで、ロタリーは、殆ど超近代的な立体交差道路(インタージャクション)に取って変わられており、ヨーロッパの都市を思わせるような佇みであった。当時は、ヨルダン人が多数を占めて、第3次中東戦争のパレスチナ難民の受け入れていただけであった。シリア人運転手によると、現在では、ヨルダン人(600万人)、中東イラク戦争を逃れた、イラク難民(推定600万人)(裕福である)が、また、その後のシリア内線を逃れたシリア難民(推定200万人)が首都アンマンに流入し、これらの難民の住宅需要により、マンションの建築ラッシュとなり、町は外へ外へと広がりを見せて、難民特需によりヨルダンの経済が潤うこととなっている。このため、25年前、400万人程度であった人口も、約1千400万人まで、膨れあがっている。
今回は、その変貌した町の様子を紹介することする。(技術部 藤井 浩)

(写真1)25年も経ても変わらぬ”インターコンティネンタル ホテル”
(写真1)25年も経ても変わらぬ”インターコンティネンタル ホテル”
(写真2)アンマンの市内風景(商店街)
(写真2)アンマンの市内風景(商店街)
(写真3)オフィスから眺望
(写真3)オフィスから眺望
 (写真4)中東ヨルダンの昼食

(写真4)中東ヨルダンの昼食風景